沿革:目次
- ● 沿革:その1 --- 真鍋二丁目誕生 ---
- ● 沿革:その2 --- 獅子舞保存会の結成と「撒喜利」の完成---
- ● 沿革:その3 --- 土橋町との出会いと,二丁目の「乱舞」の完成 ---
- ● 沿革:その4 --- 「昇殿の舞」を直接伝授する ---
- ● 沿革:その5 --- 1980年代後半からの当会の主な歩み ---
- ● 付録
- ● 出典・参考元
沿革:その1 --- 真鍋二丁目誕生 ---
茨城県土浦市内にある真鍋二丁目はその昔,真鍋一丁目と合わさった「南区(なんく)」と呼ばれる地区の一部でした。 その後,世帯数が増加したため,真鍋地区の住居表示が改正され,真鍋地区が9つの町内となりました。 このとき,南区は真鍋一丁目と真鍋二丁目に分かれ,真鍋二丁目が誕生したのです。
今では,真鍋鹿嶋神社例大祭に各町が山車や獅子小屋を伴い,鹿嶋様の御神輿宮出しのお迎えに参ります。 しかし当時は,二丁目は新しくできた町内でしたので,町内固有のお囃子がありませんでした。 二丁目だけは樽で作られた手製のおみこしを子ども達が担いで参加していたのです。
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誕生したばかりで町内独自のお囃子がなかった二丁目でしたが,町内の有志の方々の多大なる御尽力により, 1980年前半までに真鍋二丁目のお囃子を完成させることができたのです。
1976年(昭和51年),茨城県石岡市金丸町出身であった当時町内在住の多田光男氏の紹介により, 真鍋二丁目は金丸町から獅子舞囃子「乱舞」を教わる事ができました。そのときの師匠は次の方々です。
- - 篠塚 和夫氏(茨城県民俗有形文化財,四代目泰輔)
- - 中田氏(下の名前は不明。当時のすいじゅ会,会長)
- - 田中ケンゾウ氏(当時,金丸で踊り手。おかめの名手と呼ばれていた)
この年に,真鍋二丁目獅子舞保存会が結成されました。 当時は,町内子ども会が中心となり「真鍋二丁目若獅子連」と言う名称で, 多田光男氏の長男・多田光成氏ら約10数名の子ども達によって太鼓や獅子舞のお囃子が行われました。
真鍋鹿島神社例大祭に獅子舞囃子を以て初めて参加する年には,実は二丁目はお囃子道具を何も持っていませんでした。 しかし当時,多田光男氏の弟である多田利男氏が山王台に住んでいた御縁があったため, 獅子小屋や獅子頭などのお囃子道具をすべて石岡市の山王台からお借りすることができたのです。
写真は,現在の二丁目の宇田川石油に隣接する駐車場にて撮影。
また,二丁目が鹿島神社例大祭に参加し始めた年から7,8年間は,二丁目で獅子舞を行う人手が足りませんでした。 そこで,「すいじゅ会」会長であった中田氏の声かけで,「ろくしん会」の皆様が来て下さいました。 ろくしん会の会長は,当時土橋通りの近くで草履屋を営んでいた十七屋(じゅうしちや)氏でした。
その後,祭礼を盛り上げると同時に町内の和を作り,次のお囃子後継者を育成するため, 真鍋二丁目獅子舞保存会の初代会長である宇田川仁氏(当時,宇田川石油株式会社社長)を筆頭に, 中野氏,大和田氏,小松崎氏,小松塚氏,鈴木氏,大塚氏,多田氏といった町内の篤志の方々により, 獅子頭や太鼓などを寄付していただき,子供獅子が誕生致しました。
1979年(昭和54年),多田光男氏の分家繋がりであった人間文化財・篠塚和夫氏 (茨城県指定無形文化財「泰輔ばやし」四代目 泰輔師)の御指導により, 真鍋二丁目獅子舞保存会のお囃子の一つである「撒喜利」を完成致しました。 このような背景があり,真鍋二丁目のお囃子の正式名称は「泰輔流撒喜利」と称しますが, 同師のお許しがあり「二丁目ばやし」とも称し現在に至ります。 このお囃子は,勇壮味というよりも,祭特有の華やかさと哀調があり, 他町内には類が御座いません。
> > 目次に戻る△ 写真は多田邸にて撮影。
左上写真で,小太鼓は手前から,中田氏(すいじゅ会),十七屋氏?(ろくしん会)であり,
大胴は篠塚氏(泰輔ばやし),笛は川又氏(泰輔ばやし),ひょっとこは田中氏?(金丸)
△ 写真は同じく多田邸にて撮影。中央に赤いネクタイをして写るのが,多田光男氏。
沿革:その3 --- 土橋町との出会いと,二丁目の「乱舞」の完成 ---
1980年(昭和55年),土浦市で毎年夏の恒例行事である「土浦七夕まつり」(現在の「土浦きららまつり」)に初出場し, それから18年間連続出場致しました。
1981年(昭和56年),それまでの真鍋二丁目獅子舞保存会の実績と獅子舞の完成度を認められ, 人間文化財・篠塚和夫氏の紹介により,当時の石岡市土橋町獅子舞保存会会長であった川崎氏らにお会いすることができました。 このとき,獅子舞で唯一の茨城県指定民俗無形文化財である土橋町の「乱舞」を,川崎氏らから直々に学ぶ機会を与えられました。 獅子舞,お囃子の師匠は以下の通りです。
- - 川崎 秀昭氏(当時の土橋獅子舞保存会,会長)
- - 川崎 輝夫氏(当時の土橋獅子舞部門,親方)
- - 川又氏(下の名前は不明。笛の名手であり,著名な笛師。)
※ 当会顧問・多田俊彦氏が所持する笛は川又氏製作の一品 - ※ 参考文献:「常陸総社宮例大祭と獅子」(土橋獅子舞保存会,平成元年12月)
また,その際に土橋の乱舞を伝授することを許されたのは,当時の真鍋二丁目獅子舞保存会の有志です。
- - 多田 光成氏(獅子舞を教わる)
- - 田村 立(りゅう)氏(獅子舞を教わる)
- - 多田 俊彦氏(小太鼓,大太鼓,笛を教わる)
- - 中野 正芳(まさよし)氏(小太鼓,大太鼓を教わる。真鍋二丁目獅子舞保存会,二代目会長)
ただし,この伝授にはある条件がありました。それは,手取り足取りでの伝授はしないので, お囃子を奏しながら巡行する獅子小屋のまわりについて歩き,自分自身の目で見て耳で聞き覚えよ,とのことでした。 当時は笛,鉦は幌の中で奏していたため,外から笛の運指などの具体的な演奏方法を見ようとしても, 暗くて到底見ることができませんでした。そこで,多田俊彦氏は音のみを録音機で録音してそれを何度も再生しながら旋律を覚え, 実際の運指はテープを聴く中で解読したそうです。
そして,この年から3年間の修行の末に,現在の真鍋二丁目の乱舞を受け継ぐことになります。 当時,真鍋二丁目で獅子舞囃子を実際に覚えて奏することができたのは,たったの10人程度でした。
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その後,土橋町獅子舞保存会に乱舞を教わってから日々練習をこなすうちに, 遂にその技量を川崎氏に認めていただきました。そして,「この短期間で乱舞がそこまでできるようになったのであれば」 ということで,当会の日頃の修行の成果が川崎氏らに評価され, 土橋町の「昇殿の舞」を特別,直接教えていただく機会を得る事ができました。
多田光男氏は当時石岡市常陸國総社宮の役員であった小野満(みつる)氏と知り合いでした。 そのような縁があり,総社宮の境内の舞台にて,土橋町の会長らが昇殿の舞を実際の常陸國総社宮例大祭で披露するときと 同じ形で披露・伝授して下さいました。
1983年(昭和58年),真鍋鹿島神社例大祭にて真鍋二丁目が当番町を引き受けました。
この年から,二丁目の獅子舞乱舞を金丸から伝授した形から,土橋から伝授した形に移行しました。
またこのとき,公の場で初めて昇殿の舞を披露致しました。
ただし,昇殿の舞の篠笛を正しく奏するには相当な経験と高度な技術を要するため,
この時は篠笛なしでの披露となりました。
土橋獅子舞保存会の当時会長であった川崎氏から二丁目の多田氏へ宛てられた手紙。
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沿革:その5 --- 1980年代後半からの当会の主な歩み ---
1985年(昭和60年),茨城県教育委員会の呼びかけにより「つくば科学博覧会」への出場を果たしました。 これらの他にも,土浦市の実施するイベント等にも多数お声掛けをいただき,獅子舞を披露して参りました。
獅子頭は初代獅子頭です。この時の獅子小屋は二代目の屋台型であり,
このときには既に初代の石岡型の幌獅子から切り替わっています。
1992年(平成3年),それまで使用してきた二丁目の初代獅子頭から,現行の二代目獅子頭へ新調致しました。
2010年(平成22年)7月には,真鍋二丁目獅子舞保存会の三代目会長である多田俊彦氏を始めとする幹部から代変わりし, 四代目会長として名和毅,副会長として遠藤圭介と町田高史が就任致しました。
当会は,この獅子舞とお囃子を先々まで保存しなければなりません。 今後このお囃子を伝統芸能として更に磨きをかけながらも,伝承を途切れさせないためにも, お囃子を保存し,未来を担う後継者を育成して参ります。 そのためにも,真鍋二丁目獅子舞保存会会員の枠を超えて, 真鍋二丁目全体として一致団結して「伝承,後継者育成」の大きな共通目的に向かって日々邁進している次第で御座います。
〔文:副会長兼当サイト等管理・運営責任者 遠藤〕
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付録
【参考元:「泰輔ばやし」(http://www.geocities.jp/yyy55f/default2a.html)】
出典・参考元
読売新聞土浦北部専売所,仲沼新聞店.
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